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肉はダメで植物はいいのか

2010.11.29(13:43)

「植物も生きているから、殺して食べるのは残酷だとの説に対して」

 ところで、こうして植物食のみを勧めると、
米だって生きているではないか、野菜だって生きているではないかとの反駁もあれば、
植物が人間の苦しむように切られて痛いと感じ、殺されるとことを悩むと考えるのは、人間が勝手に自分の感情を植物に移入して想像するにすぎないという駁論もある。

 我々は動物が苦しんでいるのを見るのと同じようには、植物が切られているのを考えることはできない。
植物も生きているから植物を殺して食べるのもやっぱり殺生ではないかと考える人があるけれども、植物というものには個々別々に霊魂がないのである。

植物には「種族の魂」というものがあるけれども、
一個一個の米粒なる「米粒一個」に魂があるかというと、そうではない。

米種族には「米種族」の魂というのがあって、
全体が繁栄すればよいのであって、
一個一個に魂(個別的魂)というものはないのである。

それで、植物は自分の種族を維持するために、
その中の一部分が犠牲(というと変だが)になるように、
最初からその生命が計画している。

米は、穫れたもの全部が自然に落ちて発芽したら密生しすぎて、
肥料分や日光の奪い合いをして、どの稲の株も実らなくなる。

そこでその稲は自分の種子を適当な間隔をおいて蒔かなければならないが、
植物というものは自分で自分の種子を適当な間隔に蒔くことはできないものだから、
それを動物なり人間なりに頼まなければならない。

稲に限らず、すべての植物は自分で自分の生えている位置を適当に移動することはできない。

しかし移動しない限りは、彼らは自己の種族を繁殖させることはできない。

そこで彼らは動物なり人間なりの餌になるものや鑑賞し得るものを提供して、
「種族を繁殖し保持するために果実の一部分、
または種子の一部分を運搬費にあげるから持って行って食べてくれ、
その代わりに必ずその一部分は蒔いてくれ」

と頼んでいるのである。

それはその種族の魂が頼んでいるのであって、
一個一個の果物や穀粒が言っているのではない。

果物や穀粒の一個一個は殺されても、
その植物の種族が繁殖すれば、
別に殺されたのじゃないということになっているのである。

たとえば蜜柑なら蜜柑が、まだ未熟であって採取して蒔いてもダメな時は、
食べてはいかんと、その果実をわざと緑の葉と同じような色にさせており、
もし過ってちぎって食べても酸っぱかったり、不味かったりして、
とても食べられないようにしてあって、
未熟のうちには二度と食べまいと決心するように工夫している。

ところが、いよいよ適当な時がきて、果実を食べてもらって、
種子をどこかへ蒔いてもらいたいという時期がくると、
その「種子蒔き賃」に美味しいものをやるからと、
果実の中に美味しい味わいを貯え、

「ここに、こんなご馳走がありますよ」

と言わんばかりに目立つような美しい色彩をつけて、
動物なり人間なりを誘うようになっているのである。

この事実を見ても、植物の果実や種子としての穀物は
食べてもらうということが彼ら自身の意志である。

だから、それは「殺す」のではないということになる。

心と食物と人相と 谷口雅春著より引用
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4531052498?ie=UTF8&tag=sy34-id302-93--22

-------

#

植物に関してですが、

もし植物に苦痛を感じる器官あるいは脳があるなら
これは大変ですね・・

草食動物に食べられるとき
どれほどの声無き悲鳴があちこちにあがっているのか
植物の怨念がありとあらゆるところで・・・恐ろしい・・

鳥が小枝に止まろうものなら
そのつめでひっかかれ、苦しみのたうちまわる小枝。

ちょいと人間が庭の木の剪定でもしようものなら
苦しみのあまり気絶する枝枝枝。

猫が、草むらを走れば
その爪あとに傷まみれになり苦痛のあまり悶絶する雑草達。

人が芝生に横たわろうものなら
その重みに耐えかね死に絶える芝生。

あぁ・・数え上げたらきりが無いです・・・
こんなことになっては全ての植物はもう生き地獄ですね。

植物の第一使命は光合成により有機栄養分を作るということにあります。
動物、人間は自分たちで栄養が作り出せない(ブレサリアンは除く)ので
仕方がないから、植物を食べて、栄養をもらわないといけません。
だから、地上において、食べられる事に関しては植物が出発点にくるかと思います。

そのために植物は存在しているものと思っていますし、
植物は食べられることを前提としているので
自然の摂理は植物に関しては痛みを感じないように創造されたかと
わたしはそのように考えていたのですが・・・。

植物も苦痛を感じるであろうと想像できたり
植物を食べることに関してかわいそうだとかおっしゃる人は
本当にこころの優しい方なんですね(^^)

尊敬してしまいます ^-^

ただ、痛みが無いからといって
むやみやたらに食べ尽くしたり、あるいは食べ残して捨てるとか
そういうことはいたしませんけどね。 


-------------
Q: 野菜も痛みを感じると聞いたことがある。
よってベジタリアンも苦しみを引き起こしている。

A: 本当に野菜も痛みを感じると信じていますか?
もしあなたも私もそう信じていないなら、この議論は無意味でしょう。
しかし本当にその可能性について懸念しているなら、事実を検証
してみましょう。

痛みを感じることを可能にするのは中枢神経と脳の存在です。
これらを人間と動物はもっていますが、植物はもっていません。
これまで科学者が、“植物の感じる痛み”にもっとも近づいたと
言える発見は、植物がうどん粉病などにかかった際に発する
エチレンガスによる音波でしょう。
その音波はドイツのボン大学の応用物理研究所員によって
発見されました。

それでは植物(野菜、果物、木の実など)が痛みを感じると
仮定しましょう。
その痛みを避けるために、人間には何ができるでしょうか?
植物がなければ、人間は動物や鳥、魚を食べなければ生きていけませんが、
それは「痛み」の問題を解決しないばかりか、増幅させてしまいます。

私たちにできることは、痛みを最小限にすることです。
反応とその度合いを観察する限り、動物は植物よりも
痛みに対してはるかに敏感で、痛みというものを自覚していることが
分かっています。

今日収穫される穀物の大部分は家畜の飼料として消費されています。
牛は、体の肉1kgあたり、10kg以上の植物を食べなければなりません。
その動物を食べる代わりに、植物を直接食べることによって、
私たちははるかに多くの植物の命を救い、かれらの感じる何らかの
痛みから開放することになり、おまけに、それほど多くの土地を破壊
せずに済みます。
(後略)

(「But You Kill Ants」by John Waddellより)

植物の痛み、命云々を持ち出して菜食を攻撃する人たちは、
そうすることによって「動物も植物も一緒:だから一方だけを救う
ことは偽善だから両方救わない=救わなくてよい」と思いたいのだと
思います。本当に動物も植物も同じぐらい苦しむなんて、
彼らだって思っていないのです。

以前、あるAR活動家が言っていて、おもしろい例えだなと思ったのが

あるレシピがありました。
1.ブロッコリーを一口大に切って、油で炒める。

では今度は、
2.子猫を一口大に切って、油で炒める。

本当に100%同じ気持ちで、この2つのレシピにのぞめますか?
というものです。
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