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「命の奪い方」

2010.11.26(10:11)

私が田舎で暮らし、鶏を飼い、鶏を自分で捌いて食べなけれならなくなってからの
動揺や葛藤をそのまま書かれているような、私が共感する日記を見つけましたので
長文ですが、以下に転記させていただきます。

*****************************************************

“命の奪い方”という本を書いた方がいます。

「人間が動物の肉を食べるのはあたりまえ」と考え、
肉を食べることをごく自然に正当化している多くの人たちは、
自分で食べる動物を自分で殺し、処理して食べてはいないはずです。

自分が食べようとする動物を自分で殺さなくてはならないとしたら、
きっと多くの人が動物を食べなくなるでしょう。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


ずっと昔のことだ。子供相手のボランティアをやっていた時のこと。
ある時、キャンプを行って、その夕食時に鶏を絞めて料理することになっていた。
鶏は近くの養鶏場から譲り受けた廃鶏といわれる老鶏。
「子供たちにたべる事の大事さを伝える」授業の一環として行ったものだ。

参加した子供たちの親たちは口々に

「命の大切さを教えるために必要なことだ」
「食べ物がどうやって手に入れられているのか教えてやって欲しい」
「食べるためには、他の生き物の命を奪わなければならない事を伝えて」

と、立派な事を言ってくれたのだった。
ところが、いざ鶏を絞めるとなった時、親たちは

「自分は血が苦手なので」
「こうしたことはやったことがないんで、慣れた方に」
「いや、ちょっと出来ないです」

と仰り、
「どうか、先生(私の事)がやって、見せてやってください」
と云い、誰一人として自分でやろう、という親は現れなかった。

みなさま、ボランティア学生ごときに、命の大事さを伝える役割を
譲ってくださったようだ。

鶏を逆さに吊し、羽を背中側で絡ませる。こうしないと、
絞める時に暴れる可能性がある。
この段階で、鶏は観念したように温和しく、目を瞑ったままだ。絞め方には

・首を切り、血を流してしまう
・頭を潰す
・延髄を破壊する

などあるが、一番、鶏の苦痛が少なく血も流れにくい、
延髄に尖ったものを差し込み破壊する方法をとる。
鶏の頭を左手でくるむ。鶏の熱さが伝わってくる。命の熱さだ。
右手の錐を鶏の後頭部の頸椎との間に差し込む。
鶏が一瞬もがき暴れる。延髄に届かせるとグリグリと錐を回し、
「早くおとなしくなれ」と祈る。

痙攣が停まると、左手を放す。鶏は息絶えていた。
すぐにナイフで首を切り落とす。
血がボトボトと滴り落ち、鉄臭い匂いが立ちこめる。
首は簡単には切り落とせず、
骨の継ぎ目に当ててゴリゴリとこじり、伸びた皮を切り落とした。
しばらく置いて血を抜くと、湯に浸けて毛をむしる。
羽の下から出た脂肪が手にまとわりつく。細かな羽毛だけになったら、
直火であぶり産毛を焼き切る。

ここまでくると、香港の街で見掛けたような姿になった。
肛門の廻りを切り、腹を割く。内臓を取り出すと、
詰まっていた卵の原型がぼとぼと落ちる。鮮やかな黄色だ。
内臓が出るとムッとするような匂い。手についた脂肪が取れない。
あとは、腿、肋骨廻り、背骨にそっての肉、首、とバラしていく。
どんどん、肉らしくなった。
ここまでやって、しかし、取れた肉は僅かでしかない。
手際が悪いために骨に付いた身は多く、内臓は見ていた親子たちが嫌がった。

そして、出来上がったチキンカレー。 肉は固い、と不評だった。
歳取った鶏の肉は滋味があるが、固い。しばらく寝かしておくならともかく、
キャンプでは美味しくなる時間はない。
しみじみと固い肉を、自分が命を奪った鶏の肉を、噛み締めながら、
鶏の残骸を見て、鶏の最後を思った。
親たちは口々に「良い経験になった」と口にした。
しかし、自分が感じたのは「鶏の命を奪うほどの価値が、
この食事にあったのだろうか」だった。

結局そうなのだ。
「(自分が)生きていくためには、何かしらの命を奪わなくてはならない」
と厳かに仰る方々は、しかし、自分の手を汚したりはしない。
自分の手を熱い血に浸したりはしない。
自らが奪った命の価値を推し量ったりしない。それは言葉に過ぎないのだ。

確かに自分たちは、何かの命を奪わなくては生きていけない。
だが、どの程度その重みを感じている?
むしろ、自分たちの行為を正当化するためだけに使われてはいないか?
自分たちの後ろめたさを隠すために使われていないか?

それからも何度か動物の命を奪った。何のために、とは云うまい。
それが正当化するわけもないのだから。
今でも食事をすれば、何らかの形で命を奪っている。
ビーガン*1というわけじゃないが、それでも肉はあまり口にはしない。
自分でシメなくても、誰かが代わりに命を奪っているのだ。
それに知らぬふりを決め込む方が罪深くないか、と考える。
そして、自ら命を奪った経験から得た言葉は
「生きていくためには、何かしらの命を奪わなくてはならない。
だから、命を奪うことは仕方がない」では無かった。

「命は奪わざるをえないなら、だからこそ、極力奪うまい。
奪わずに済むなら奪わずに済ませよう。奪ったのならば、それを大切にしよう。」だった。

命を、何かを奪うことが当然、と正当化できると考えるなら、それは違う。
奪うことへの懐疑は常に持ち続けなければならない。
そして、それが私が子供たちに伝えられる言葉だと思った。
今でもそう考える。
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